2011-06-08 読書会「『エンデの遺言』を読む」(6/25〜9/17)募集中です。各回毎に参加できます。

2011-06-21 Webマガジン『我逢人』Vol.2 を発行しました。



「Roses in the window」

「分かる」ということ

 横山 慶一

 震災から3ヶ月が経ち、相当数の方々がボランティアで被災地を訪れて支援活動をされている。現地ヘ入ることで被災者の気持ちが「分かった」という方がいる一方で、先日、菅野泰蔵先生(東京カウンセリングセンター所長)が講演会にて話された「被災者の気持ちは被災者本人にしかわからないこと」という言葉にも共感を覚える。
 カウンセリングの世界では「わかるとはどういうことか」議論になることが多い。「分けて明らかにすること、頭でわかること」「心で共感すること」「全身ですべてを受けとめられること」 etc. 結局のところわからないことはわからないまま試行錯誤しながら進むのがカウンセリング。これは今回の震災でもいえることで、未曾有の経験に遭遇して正しい判断をしなければならない中、必要なのは強いリーダーシップと問題が起こった時に速やかに方向修正できる適応力ではなかろうか。前向きでしなやかな発想を持ちたいと思う。

半夏生(はんげしょう)

 京都・祗園にある臨済宗大本山建仁寺塔頭 両足院は、別名「半夏生の寺」と呼ばれています。「書院前庭」の池のほとりには、半夏生(半化粧)が群生していて、初夏になると葉が化粧をしたように白く色づき、庭園の豊かな緑とのコントラストが清々しさを運んでくれます。
 一方、暦の「半夏生」は、夏至から数えて11日目頃、今年は7月2日だそうです。「半夏生」は二十四節気とは別の雑節の一つ。雑節とは季節の移り変わりをより的確につかむために設けられた日本独自の暦日で、節分、彼岸、八十八夜、土用などがあります。「半夏生」は梅雨の末期、半夏(カラスビシャク)という毒草が生える多湿で不順な頃とされていて、農家の人たちはこの日までに田植えを済ませ、どんな気候不順な年でもこのあとは田植えをしないという習慣がありました。
 半夏生を過ぎると小暑、大暑といよいよ夏到来です。今しばらくの雨の日々、寺の境内に座り、雨滴を受けとめて静かに爽やかにたたずむ半夏生を眺めて過ごすのもこの季節の楽しみの一つかもしれません。
 両足院では7月10日まで庭園が特別公開されています。(毛利)


【特集】ミヒャエル・エンデと今

 ミヒャエル・エンデ(1929〜1995)はドイツの童話作家であり、話を聞くだけで人々を癒すモモや、『はてしのない物語』の虚無など内的世界を描き、日本でも非常に多くのファンがいます。しかしイマジネーションで訴えてくるファンタージーの力は没後15年経っても現在に通じる鋭い考察・警鐘が込められています。今回は晩年のエンデが取り組んでいた思想的な側面についてレポートいたします。

(1) 『モモ』のなかの「灰色の男たち」(毛利)

 『「モモ」を読む~シュタイナーの世界観を地下水として』(子安美知子著 朝日文庫)に灰色の男たちについての記述があります。
 ちなみに灰色の男たちとは、モモの友達を次々に時間貯蓄銀行にとりこんでいった時間どろぼうです。
 「彼らは、まさしく物質主義、物量的価値観の代弁者です。エンデ自身、灰色の男たちはテクノロジーという外界を映しだしていると言い、次のように語っています。

 灰色の男たちは、こまぎれ、分解の原理です。彼らにとっては、計算、計量、測定できるものだけしか現実性をもたない。計量思考を代弁しているのです。(『エンデと語る』)」

 『モモ』(ミヒャエル・エンデ作 大島かおり訳 岩波書店)には、灰色の男たちのことがこう表現してあります。

 「彼らはすがたが見えないというわけではありません。ちゃんと見えるのです━ところがだれも彼らに気がつかないのです。彼らは気味のわるいことに、人目をひかない方法をこころえているため、人びとは彼らを見すごしてしまうか、見てもすぐにわすれてしまうかです。ですから彼らは、すがたをかくさないでいるためにかえってうまく秘密の仕事ができます。だれの目もひかないのですから、どこから来たのかだの、どうして毎日こうも彼らの数が多くなってくるのかだのとせんさくされることも、とうぜんないわけです。(54ページ)

 再び子安美知子さんの著述より。

 「私たちは、そもそも計量思考、テクノロジーというものを疑ってみたことがあるでしょうか? その存在には毎日出会っているのです。デジタル時計、電話、自動車、テレビ~それは毎分毎分、いやほとんど秒刻みに姿を現しているではありませんか。
 テクノロジーは、まるで空気と同じくらいに当然のものとなって、私たちのまわりにあります。もはや "人目をひかない" 存在です。 "姿をかくさない" でもいいのです。
 テクノロジーを自明のこととして是認し、それも無意識的にそういう姿勢になってしまっていると ー つまり私たちが身体人間の目や耳によって生きるばかりになり、したがって物理的外界に同化しきってしまうと ー テクノロジーという実体は "姿をかくさない" でいるためにかえってうまく秘密の仕事ができます。
 人間のいのちの同義語である時間を、吸いとり、しぼりとり、からからに干からびさせてしまうこと、これがテクノロジーの秘密の仕事でした。」

 時間を盗まれた人たちはどうなっていったのか、『モモ』から抜粋します。

 「彼はだんだんとおこりっぽい、落ちつきのない人になってきました。というのは、ひとつ、ふにおちないことがあるんです。彼が倹約した時間は、いっさい、彼の手もとにひとつものこりませんでした。魔法のようにあとかたもなく消えてなくなってしまうのです。彼の一日一日は、はじめはそれとわからないほど、けれどしだいにはっきりと、みじかくなってゆきました。~彼は灰色の紳士の訪問をうけたことももうおぼえていないのですから、ほんとうなら、いったいじぶんの時間がどうしてこうも少なくなったのか、しんけんに疑問にしていいはずでした。けれどこういう疑問は、ほかの時間貯蓄家とどうよう、彼もぜんぜん感じませんでした。そして、毎日毎日がますますはやくすぎてゆくのに気がついて愕然とすることがあっても、そうするとますます死にものぐるいで時間を倹約するようになるだけでした。」

 彼らは、余暇や遊びでさえ、効率よくやろうとせわしなくなっていきました。
 奇しくも先日作家の村上春樹さんが、国際賞の受賞スピーチで、福島第一原発事故について「我々日本人は、安易に効率を優先する考えに導かれるべきではなかった。原子力エネルギーを拒否すべきだった」。と訴えました。
 子安さんは私たちにこう問いかけます。

 「ではテクノロジーによる災いが起きたときには、せめて現代人はあらためて灰色の男を直視するでしょうか? 私が『エンデと語る』の原稿を書いていた時期に、ちょうどアメリカのスペース・シャトルの事故があり、まもなくソ連のチェルノブイリ原発事故がありました。私は、そのたびに対談中でエンデ氏が予言めいた発言をしていたことを思いだしました。」

 自然科学一辺倒の発想が変わる日はきます。理由はこうです。きわめて現実的な生活上の、あるいは人間の生の根本問題が、それも何百万人もの人間の幸不幸を左右するほどの問題がもちあがって、もしそれが自然科学的世界観の枠内だけで決定されるようなことになるとする。そんな日がきたら、人間はやはり気づくにちがいありません。そして変わりはじめる。今はまだ、人間はそこまで直接的には結果を目にしていないのです。

 このたびの東日本大震災よる福島第一原発事故は、「何百万人もの人間の幸不幸を左右するほどの問題」に残念ながらなってしまいました。「そんな日がきたら、人間はやはり気づく、そして変わりはじめる」━エンデ氏より突きつけられた課題が今わたしたちに重くのしかかります。


(2) エンデからの警鐘(横山)

 近代の還元主義はさまざまな分野を専門性という形で分断化してしまった。自然科学のみが人間に幸福をもたらすという神話が崩れつつあることをエンデは早くから指摘し、晩年は資本主義経済や環境問題などより統合的な視点から人類の危機について語っている、その最後の思索は、今回Toi Toi Toi !!!の読書会で取り上げる『エンデの遺言 〜根源からお金を問うこと』に残されている。
 健康な精神性を維持し、生活に必要なお金を稼ぐ活動は生きることそのものであるにもかかわらず、カウンセリングの世界でお金の問題はあまり取り上げられてこなかった。

 「どう考えてもおかしいのは資本主義体制下の金融システムではないでしょうか。人間が生きていくことのすべて、つまり個人の価値観から世界像まで、経済活動と結びつかないものはありません。問題の根源はお金にあるのです。」(エンデ)

格差と差別の問題

世界をおおう金融システムとその上に乗って自己増殖しながら疾駆する「貨幣」は、人間労働の成果と自然を含む価値高い資源を、貧しい国から富める国へと移す道具となっている。
「今日のシステムの犠牲者は、第三世界の人々と自然に他なりません。このシステムが自ら機能するために、今後もそれらの人々と自然は容赦なく搾取されつづけるでしょう。(エンデ)」
いかなる国、社会に属そうとも、人々の絶え間ない営為はつねに正当な成果へと結実されなければならず、次の世紀へと引き継ぐべき香り高い遺産でなければならない。にもかかわらず、世界金融システムは「商品として売買される通貨」を前提としており、いまや世界のすべての地域と人は、グローバライゼーションにより自由奔放なる商品としてのマネーの襲撃の前に裸で身をさらすことを余儀なくされている。経済において「根源的」であることは、経済を対象とする経済学者によってではなく、人間にそそぐ視線のやさしさに支えられた作家や思想家、また文化人類学者やその他の社会科学者によって豊かに提示される。

2種類のお金の存在

「重要なポイントはたとえばパン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金は、二つの全く異なった種類のお金であるという認識です。(エンデ)」
「利が利を生む」サイクルを一層膨張させる金融工学的手法であるヘッジファンドやデリバティブは、それが成り立つ条件そのものの中に本来的に非道徳性を組み込んでいる。ヘッジファンドが享受してきた高い利益の源泉は、世界に存在するありとあらゆる種類の「格差」である。「格差が格差を生む」構造こそが「利が利を生む」マネーの運動を可能にし、高度の利益の源泉としてマネーを支えている。
「私が考えるのは、もう一度、貨幣を実際になされた仕事やものと対応する価値として位置づけるべきだということです。そのためには現在の貨幣システムの何 が問題で、何を変えなくてはならないかを皆が真剣に考えなければならないでしょう。人類がこの惑星の上で今後も生存できるかどうかを決める決定的な問い だ、と私は思っています。非良心的な行動が褒美を受け、良心的に仕事をすると経済的に破滅するのが今の経済システムです。(エンデ)」

共生と友愛

「マネーの暴力」から地域を守る共生セクターが機能することで、なによりも人びとは労働と成果の受益を等しい対価で交換することが可能となる。100の労働に対して100の報酬を得ることができる。
「経済というのはもともと人びとの生きる、働く、暮らす、を統合する存在として、生業として、営みとしてあったはずです。その原点をもう一度考え直 す。そのよすがの一つとして通貨の通念問い直すことは、結果において大きな力を共生セクターに与え、共生セクターの実質化に道を開くことになるのではない でしょうか。(エンデ)」


(3) エコマネーまたは地域通貨

 『エンデの遺言』の第3章以降では思想家シルビオ・ゲゼルの老化するお金の理論とその実践が詳しく紹介されている。従来お金は流通する時に利息がつくが、ゲゼルはその反対に減価するお金の理論を考え出した。この理論はドイツのヴェルグル、アメリカのイサカアワーなどで交換リング、自由貨幣と言った新しい貨幣経済の試みを促し、日本でも1990年代には地域通貨の試みがさかんに行われた。現在は世界的にこのような試みは衰退している。
 エンデがお金の問題の一つとして地域通貨を持ち出しているのは友愛とコミュニティの視点から、お金を「実際になされた仕事やものと対応する価値として位置づけるべきこと」と、「生きる、働く、暮らす、を統合する存在として、生業として、営みとしての経済に戻すこと」がお金の暴走を沈静化する唯一の方法であり、東北大震災のような災害での経済基盤の建て直しに地域通貨・エコマネーといった地域独自の通貨システムを導入することは、地域コミュニティの活性化や雇用創成といった経済的基盤を強力かつ迅速に復興させる最善の方法の一つのように思う。(横山)




メンタルヘルス講演会にて

 メンタルヘルスについて話をさせていただく機会があった。最近の情報を集めながら気づいたこと。
 まず昨年の交通事故死者数は4863人と、10年間減少していること。交通事故は誰もが目にする身近な事故(事件)であり、亡くなる方も多いと思いがちだ。それに対して昨年の自殺者数は31690人。1昨年前まで3万2千人超だったので少し減少したものの、交通事故の6.5倍にあたるわけで異常に多いと感じざるを得ない。生きるための最低条件は満たされており、身体的にも健常で活力のある壮年期の人たちが自ら命を絶つ理由は何なのか。非常に複雑で多様化した社会構造が不安を肥大化させ極めて大きなストレッサーとなっているのであろうか。
 もう一つここ数年注目されているのが「新型うつ」。従来の「うつ」とは異なり、食欲不振、不眠、自責の念、落ち込みといった「うつ」の典型的な症状が現れず、多彩な症状や行動が見られるため「非定型うつ」などとも呼ばれる。(※非定型とは要するに「あてはまらないもの」として扱われる括りのことらしい。)職場を離れると元気になり、職場に迷惑をかけるという認識がなく与えられた権利を主張するといったケースが多く、サボタージュと区別がつきにくい。なので従来のように「がんばらなくていいよ」とは単純にはいえない。正式な分類はなされていないが症状から、(1)不機嫌と情緒不安定が顕著なもの(ディスチミア症候群)、(2)過眠、過食、倦怠感と対人関係過敏(非定型うつ)が主たる症状のもの、(3)発達障害(アスペルガー症候、コミュニケーション障害)が想定されるものなどに仮分類されている。これらの症状に共通点を見いだすとしたら、パーソナリティの未熟性ではないか。

 個性の発達が遅れた未成熟な人たちにとって、複雑化した社会に適応していくのは大変だと思う。このような生きにくい社会ではコミュニケーションが非常に重要だ。メンタルヘルス指針では4つのケア(セルフケア、ラインによるケア、事業場内産業保健スタッフ等におけるケア、事業場外資源によるケア)において段階的な連携を重視しているが、現実には、事業場内外の資源についてその存在すら知らずに部下の不調に気づきながらどうしてよいか分からず一人で抱え込んでしまうマネージャなどが多いようである。ことさらメンタルヘルスの講習や研修を受ずとも、普段から傾聴や共感、コーチング等に親しんで自然体で人と関われるような仲間として関係を保つことが重要である。
 5月28日付け朝日新聞夕刊「いじめ 職場はびこる」という記事が大きく載っていた。職場でのいじめ、すなわちパワーハラスメントによってPTSDに罹患してしまうケースが上げられている。従来は過重労働によるものがほとんどであった労働災害について、パワーハラスメントによる障害が発生した場合にも労災も認定されるようになりつつある。メンタルヘルスは単にこころの問題だけではなく、組織全体、社会全体の問題として取り組む課題である。(横山)


世界でいちばんふかい呼吸

 5月から週一回の親子クラスに息子と行き始めて一ヶ月がたちました。ここはシュタイナー教育を基礎とする親子クラスです。
シュタイナー教育はオーストリア生まれの思想家、ルドルフ・シュタイナーの思想に基いた教育です。このシュタイナーの思想は、世界的ベストセラー『モモ』や『はてしない物語』『鏡のなかの鏡』などの著者、ミヒャエル・エンデにも影響を与えています。
 シュタイナーは人間成長を7年周期でとらえています。第Ⅰ・7年期、つまり0才から7才までは肉体の形成に専念する時期。五感が発達し、内臓や骨格が一応の完成した形をとる、そして最後に歯が抜け替わる。この7才までの営みは将来の意志力、行動力の基礎になるといいます。
 海外などのシュタイナーの幼稚園では、先生や大人たちは、子供にやってほしいことをただただ目の前で行ってみせる。絵を描く、歌を歌う、散歩に出る、花に水をやる、お芝居をする、すべて先生自身が先に立ってやるといいます。第Ⅰ・7年期の子供が、この「模倣の存在」であることを通して「世界は善である」と感じとっていく。第Ⅱ・7年期には「感情の存在」として「世界は美である」と感じ取り、第Ⅲ・7年期は「思考の存在」となって「世界は真実である」と認識するようになる・・こんな具合です。
 親子クラスはいつも「おはようことりさん」という歌で始まり、素敵な香りのアロマオイルを手につけてもらって、次に「小さな小さなお山の上に」という物語をみんなで唱えながら手遊びをします。まずはこの一連のあいさつから始まります。季節の歌や布などを使って遊んだ後は、おやつタイム。

テーブルには庭で摘んだ花が生けられた小さな花瓶がそっと置いてあり、そこで玄米団子や季節の果物など手作りのおやつを頂きます。そのあとは公園で外遊び、だんごむしを探したり、砂遊びをしたり・・・。お家に帰ったら絵本を読んでもらって、そのあとはお別れのごあいさつ。こんな感じで、それほどシュタイナーシュタイナーはしていませんが、先生方がシュタイナー教育を受けておられるので、子供の見守り方が一人ひとり丁寧で、その子の今の気持ちに呼応してことばをかけてくださったり、一人ひとりの能力をよくみてくださいます。
 息子はリズムがわかってきたようで、親子クラスの日は、自分でくつを履いてでかけようとします。駅からお家までの散歩も楽しそう・・・。
 創刊号でご紹介した「シュタイナーのこどもの育てかた おとながこどもにできること」の著者、ローター・シュタインマンは言っています。
 「ほんとうにじぶんの子育てがよかったのかどうか・・・その「結論」は、いつやってくるのでしょうか。子育てが「うまく」いったのか、いかなかったのか、それはいったいいつわかるのでしょうか。・・・試験でわかるのはこどもが学んだことのうち、ちっちゃな、氷山の一角といったようなことです。学んだことは沈んでゆきます。人生すべてがその結果であるということが考えられていないのです。・・・もしかしたら、30年、40年後のある日、はじめてこどもたちは感謝するかもしれません。でも受けとれないかもしれない。もうわたしたちはいないかもしれない。子育ての時間とは、そんな長い長いじかん、ふかいふかい呼吸を生きている、ということです。」
 一日一日、今この時を大切に、息子と向き合っていきたいと思わせてくれた一節でした。(毛利)


【ことば】

松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ (「三冊子」 松尾芭蕉)



 言葉の通り、松のことは松に習い、竹のことは竹に習いなさいと言う意味だと思う。しかし、一体芭蕉はどのような心持ちでこう綴ったのだろう。「習へ」とは「おしえてもらいなさい」という相手に対する謙虚な気持ちから発するもの。ハウツウ本ばかりが売り出され、ともすれば誰もが「教えてやろう」という上から目線に陥りがちなご時世、少なくとも話を聞く立場で支援業務に関わるものとして、謙虚な気持ちでおしえてもらう姿勢が必要であろう。間違っても知識や専門性をふりかざし、何とかしてやろう、助けてやろうと思うのは間違いだ。若い時、『日本人のこころの歴史(唐津順三著)』で芭蕉に触れたこの一説を読んで、相手から習うことの大切さを教えてもらった。復興に向けて関わる中で、当事者しか分からないことを「『習ふ(=おしえてもらう)』という姿勢を原点にする」ことの大切さを思う。(横山)



 『我逢人』は毎月中旬の発行を目標にしていますが、一ヶ月は早いです。書きたいことはたくさんあるのですが日頃から少しずつまとめておかないと〆切までにまとまりがつきません...がんばって1ヶ月間のご報告や、気づいたことを中心に書いていこうと考えています。カジュアルでタイムリーな話題はブログへも書き込みます。


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