2015-01-31 Webマガジン『我逢人』Vol.10 を発行しました。


2015-02-15 「未来へ紡ぐリレーフォーラム」

「東日本大震災」と「阪神・淡路大震災」2つの被災地に住むこどもたちが互いの現地を見て交流するプロジェクトの報告会と「次の大震災」に備え過去の教訓を共有し、命を守るために何が必要かを考えるトークセッション。毛利が報告会の進行とトークセッションのコーディネーターを務めます。


2015-02-16 「よみうり住まいフォーラム 阪神・淡路大震災20年 復興の軌跡とこれからの街づくり」

毛利が神戸の未来像について考えるパネルディスカッションのコーディネーターを務めます。


【「こころの相談師」中級講座は3月28日(土)から開講です。】






御神樹(素盞嗚尊神社・高槻市) 

『我逢人』を再開します。


2012年2月のVol.9で発行を止めておりました『我逢人』を再び発行することにしました。気負わず、感じたことなどを再び書いていきたいと思います。中断していました3年間の間に、毛利、横山とも公私にわたりいろいろなことがありました。大きなトピックについてはカラムで書きます。社会的には政権が変わり、アベノミクスによって、経済状況の変化や地方創生や地域復興、地域経済など人と人との交流の変化のほか、イスラム国のような過激集団の登場により、国際情勢においてもコミュニケーションのありかたがより鮮烈なものになってきているように感じます。
 こんな中で今、私たちは“エンゲージメント”と“コミュニティ”のあり方に注目しています。エンゲージメントとは、経営やマネジメントの世界で「自発的な行動を促し、仲間を信頼し合う気持ちを醸成が、より高い業績ヘとつながることから、意図や愛情・愛着を持ってかかわること」を指しています。震災以来、「絆」という言葉が日本中で膾炙していますが、この“思いで繋がる”「絆」をさらに越えて含む社会的、経済的活性化に連なる大きなキーワードとして「エンゲージメント」の概念を含んだ提言をしていきたいと考えています。
 また、小さなコミュニティの中で、一人ひとりが「絆」を大切にして相互に深い信頼を築くことができる人を育てたいと考え、昨年9月より“生涯キャリア”学習センターにおいて「こころの相談師」の育成をスタートしています。(横山)


 昨年2014年は私にとって大きな出来事が重なった一年でした。
「人生順調な時にいろいろとハプニングは起こるものです」と尊敬するキャリアカウンセラーの師が励ましの便りをくださいました。その出来事とは、私の闘病と父の死です。そのため一年間は発信する気力もなく、ただそれと向き合い自分のうちに溜めていく日々でした。結果沈黙の一年になってしまいました。
 この苦境を乗り越えるすべを私は必死に探りました。新たな年を迎え、ようやくそれらの出来事を振り返ることができるようになりました。「我逢人」三年ぶりの再開。ここに空白の時間に感じたことや考えたことを記してみたいと思います。年女の今年、穏やかにかつ秘めたる情熱をじわじわと表出していきます。(毛利)

『闘病記 2013年 夏~秋』 - 毛利 聡子 -

 2013年9月下旬の約2週間、私は初の入院生活を送りました。

その日は朝から急な発熱と悪寒に見舞われ、すぐにも救急外来に飛び込みたいのを我慢して、滋賀・大津のびわ湖放送で予定されていた番組収録をなんとか終え、夕方電車で大阪まで戻って這うように救急外来へ。血液検査とレントゲン検査の結果、気管支炎か肺炎と言われ、その日は薬を処方されて帰宅(その年の5月に一度マイコプラズマ肺炎に罹り、薬で治った経緯があったため)。ところが翌日も半日おきに高熱が出ては解熱剤を服用して熱を下げ、のくり返し。咳もひどくなり、再度次の日の朝一番に救急外来へ駆け込みました。
底をついた解熱剤を処方してもらいすぐに帰宅するつもりが、なんと肺炎に加え、白血球、血小板の数値が急激に下がっているため危険な状態とのことで急遽入院することになったのです。入院の準備もなければ心の準備も無く、しかも4歳の息子は近所の家に預けたまま。しかし有無を言わさず私は点滴をつながれ、車いすに乗せられて病室のベッドへと運ばれたのでした。
抗生剤の投与と輸血がすぐに始まり、高熱と激しい咳とでその日のしんどさはマックスに達していました。今思えば救急外来に駆け込んで良かった、あのまま放っておいたら取り返しのつかないことになっていたのでは、と思うほど重症でした。
ベッドでも気になるのは子どものことばかり。悪いことは重なり夫は海外に出張中だったため、誰も迎えに行ける人はいません。預け先の方のご厚意で、その夜はお宅に泊めて頂くことになりました。幸い息子が0歳の時から、私の仕事や所要の時には預かって頂き、子どもの成長を共に見守ってくださり家族ぐるみで親しくして頂いていたご家庭なので、本当に安心して預けられました。翌日は実家の母が遠路はるばる山口から駆けつけてくれ、ひとまずほっとしました。

先述したとおり私は5月にもマイコプラズマ肺炎にかかり、その時は飲み薬を飲んですぐに症状が改善したのですが、今回は肺炎球菌性肺炎で、かなり重症のものでした。10日間熱が下がらず、咳もひどく、その間ずっと抗生剤を打ち続けましたが、なかなか症状が改善せず、幾度か心が折れそうになりました。

入院して1週間経った頃、お見舞いに来てくれた息子が、帰り際に私にしがみついて離れようとせず、ついに大泣きしてしまいました。今まで我慢していたものが一気に溢れ出たのでしょう。この1週間、子どもながらにしっかりしなくてはと気丈に振る舞い、いつもどおり幼稚園に通い頑張っていたのですが、どこかで私の入院のことが気になり、ふと寂しげな表情をすることがあると幼稚園の先生もお手紙をくださっていました。きっといろんな感情が渦巻いて、不安な1週間を過ごしていたのでしょう。夫と帰宅する背中を見送り、病室に戻って独り子どもの気持ちを思うと涙が止まりませんでした。

10日目からようやく食事が「美味しい」と感じられるようになり、それから症状は改善していきました。点滴がはずれ、検査結果もよくなり、ようやく主治医の先生から退院OKの許可を頂いたときにはほっとしました。入院から13日目、いつもよりも何倍も長く感じられた2週間でした。
一方でようやく看護師さんたちの名前が覚えられ、掃除の方や、食事やお茶を運んでくださる看護助手の方、同じ病室の方とも気心が知れたところでお別れとなり、あんなに待ち遠しかった退院は嬉しい反面、みなさんとお別れと思うと名残惜しくも感じられ、複雑な想いがしたものでした。主治医の先生もお若い先生でしたが、毎日誠実に的確に症状を説明し、診察してくださり、治療の励みになりました。本当に有難く思います。

今回の入院で、レギュラー番組の収録を計3回お休みすることになりました。番組のキャスターを務めている私に代わって、その日はアシスタントの後輩が立派に務めてくれました。番組に穴を空けるのはかなりへこみます。できれば這ってでもスタジオに行き、本番の数時間だけは気合で乗り切りたい、という思いがあります。それにいろんな方にご迷惑がかかり、何より視聴者の方に申し訳ないという思いがあります。レギュラー番組を休んだのはアナウンサーになってこれで2度目となってしまいました。
私は13年前にも体調を崩し、その時出演していた毎日3時間生放送のレギュラー番組を一日休んだことがありました。当時アナウンサーになって10年目くらいでしたが、それまでは自分の番組を自分の都合で休むことなどありえないという強い責任感と頑ななまでの使命感があり、プロデューサーに休みを申し入れた時は苦渋の思いでした。悔し涙も流しました。ところが、私の代わりを後輩が四苦八苦しながらも務めてくれ、むしろ自分の持ち味を出していい具合に進行していて、その時初めて『私がいなくても番組はまわるんだ』と、ふっと肩の力が抜けたのを覚えています。それは180℃考え方が変わったと言っても過言ではないほどのとても衝撃的な出来事でした。
『アナウンサーはその番組の顔、たくさんのスタッフがオンエアまでに準備を重ねたものを最終的にテレビを見ている方に伝える役目、決して休むことなど許されない・・』それまでの私は自分自身に強いプレッシャーを与え、アナウンサーという職業に『テレビに出ている人』という今思えば高慢ともいえるプライドを持っていたのかもしれません。ところが、私がいなくても番組は進み、普通にオンエアされている事実を目の当たりにして、これまでの頑なな思いが一気に崩れ去りました。アナウンサーは特別ではなく、体が辛い時は休んでもいいんだ・・と当たり前すぎるくらい当たり前のことにこの時初めて気づいたのでした。
それ以来、肩に力を入れず無理をしない自然体の生き方を心がけるようになりました。この経験がなければ私はずっと高慢なまま頑張りすぎる日常を続け、ストレスを抱え続けていたと思います。ここらで少し休みなさい、そして自分を少し見つめ直してみなさい、という天からのお告げだったのかもしれません。
その経験があったからこそ、今回このような事態にも関わらず、休養をしっかりとり、回復するのを焦らず待つ、という余裕のある考え方ができたのではないかと思います。私がいなくても誰かが代わりをしてくれ、番組は成立する。人間だもの、完ぺきではないとある種悟りの境地。実際、点滴をつながれ、病院に軟禁状態では諦めるしかなく、その状況を意外にもすんなりと受け入れることができたのでした。

それともう一つ、13年前体調を崩した時に得たものは、カウンセリングの世界に飛び込めたことでした。友人がふと何気なく私に見せてくれたパンフレット。それは関西カウンセリングセンターの講座の内容が書かれたものでした。私はこの時自分の体と精神的なもののつり合いが取れず、頑張ろうと心では思っても体がなかなか言うことを聞いてくれない状態でした。こころとからだの関係に興味をもった私は、社会人になって初めて、自分の職業とは無関係の領域で学んでみたいと思いました。そして思い切って飛び込んだのです。仕事が終わりテレビ局を出て、夜センターに通う日々がそこからしばらく続きました。

さて、晴れて退院したものの、足の筋肉が衰えていたせいか、2、3日は歩いてもどこかふわふわした感じでしたが、3日後には大きなシンポジウムを控えていたためスイッチをすぐに現実に切り替え、本番に臨みました。そしてその日の仕事は今まで以上に肩の力が抜け、等身大の私自身の言葉で語れた心のこもったシンポジウムになりました。
入院中も痛みや辛さに耐え、主治医の先生には「シンポジウムまでにはなんとか治したい」と訴え、励ましてもらい、やっとの思いで迎えられたこの日の仕事を無事に終えられて本当に安堵感と充実感でいっぱいでした。
今回の経験で一番に感じたこと、それは「健康である」ことがどれほど幸せかということです。日常の何気ないくり返しがいかに幸せであるかということです。そのためには普段「頑張りすぎない」「無理をしない」「等身大で生きる」。仕事やママ友とのお付き合いや我が子の教育のことでストレスをためない。自分の軸をしっかり持って生きていきたいと思いました。

もう一つ、入院を通じて大事なことに気が付きました。それは「多くの人に支えられて生きている」ということです。入院初日に息子を預かって頂いた方が、退院祝いにと届けてくださったお祝いのお寿司。涙がでるほど嬉しく感謝の気持ちで美味しく頂きました。



と、ここで私の闘病記は終わり・・となるはずだったのですが、これはほんの序章にすぎず、ここからまだまだ本格的な闘病が始まるのでした。

続きは次回以降の「我逢人」に連載していきたいと思います。

認知症施策推進総合戦略「新オレンジプラン」発表 - 毛利 聡子 -

政府は2015年1月27日、認知症の発症初期や65歳未満の若年性認知症への支援強化など、2025年度までの具体的な対策を盛り込んだ「国家戦略(新オレンジプラン)~認知症高齢者等にやさしい地域づくりに向けて~」を正式決定しました。

新オレンジプランでは、13年度からの「認知症施策推進5か年計画」(オレンジプラン)を充実させ、「認知症の人の意思が尊重され、できる限り住み慣れた地域のよい環境で自分らしく暮らし続けることができる社会の実現を目指す」ことを基本的な考え方とし、次のような7つの柱を掲げています。
 ① 認知症への理解を深めるための普及・啓発の推進
 ② 認知症の容態に応じた適時・適切な医療・介護等の提供
 ③ 若年性認知症施策の強化
 ④ 認知症の人の介護者への支援
 ⑤ 認知症の人を含む高齢者にやさしい地域づくりの推進
 ⑥ 認知症の予防法、診断法、リハビリテーションモデル、
   介護モデル等の研究開発及びその成果の普及の推進
 ⑦ 認知症の人やその家族の視点の重視

新しく盛り込まれたものを具体的にみていくと、
 ①の普及・啓発では、認知症への社会の理解を深めるための全国的なキャンペーンを展開し、「認知症サポーター」が様々な場面で活躍できるよう支援していくとし、「認知症サポーター」の人数の目標を原稿プランの2017年度末600万人から新プランでは800万人に引き上げています。「認知症サポーター」とは、認知症について正しい知識を持ち、認知症の方やそのご家族を自分のできる範囲であたたかく見守り、支えていくボランティアのことで、都道府県や自治体などが主催する無料の「認知症サポーター養成講座」を受講したら誰でもなれます。ちなみに昨年末現在、全国で580万人を達成し、大阪府では30万人以上のサポーターがいます。大人だけでなく、小学校や中学校でも認知症サポーター養成講座を開催し、認知症の人を含む高齢者への理解を深めるような教育を推進していくとしています。
 ②の「認知症の容態に応じた適時・適切な医療・介護等の提供」では、特に早期診断・早期対応に力を入れ、かかりつけ医の認知症対応力向上、認知症サポート医の養成、歯科医師・薬剤師の認知症対応力向上、認知症初期集中支援チームの設置などが実施されます。新オレンジプランでは体制整備の目標値が引き上げられ、「認知症初期集中支援チーム」については、現行では「15年度以降の制度化を検討」とされていたものが、新プランでは「18年度から全市町村で実施」となっています。
 また、行動・心理症状(BPSD)や身体合併症等への適切な対応の項目では、医療機関・介護施設などでの対応が固定化されないように、最もふさわしい場所で適切なサービスが提供される循環型の仕組みを構築、身体合併症などに対応する一般病院の医療従事者の認知症対応能力向上、新たに看護職員の認知症対応力向上が掲げらています。
 新オレンジプランでは④認知症の人の介護者への支援の項目があり、2018年度からすべての市町村に配置される認知症地域支援推進員等の企画により、地域の実情に応じ「認知症カフェ」等を設置し実施するという目標を新たに掲げています。「認知症カフェ」は、本人や家族の居場所としてだけでなく、情報交換や相談の場、地域の人に認知症の知識を普及する場としても機能しています。家族が認知症になったらオープンにしたくないという意識がまずは働いてしまいますが、そうなると家族だけで介護を抱え込みしんどくなってしまいます。しんどさを共有できる場があることはどれほど本人や家族の支えになるかを実感しています。認知症は誰もがなるかもしれない病気です。決して他人事ではないことを一人一人が受けとめ、つながりのあるあたたかい社会の実現に向けて誰もが主体的に取り組む課題ではないかと思います。私も認知症サポーターとして、またカウンセリングを学んだ身としてできることを行動に移していけたらと思っているところです。
 これからの活動の中で、認知症患者やその家族に関わる機会も増えてくることが予想されます。認知症患者の家族として経験したことを踏まえ、患者やそのご家族に接する時の心構えや方法などをまた次回以降まとめてみたいと思います。

《参考文献》

 昨年12月に亡くなった父は、直接の死因は末期の胃がんでしたが、昨年夏に胃がんとわかる一年ちょっと前から認知症の診断を受け、治療をしていました。父の場合は認知症でも約半数を占めるアルツハイマー型ではなく、レビー小体型認知症という一般にまだあまり知られていない認知症で、もの忘れは目立たず、幻視が特徴的でした。一番初めにおかしいと気づいたのは同居していた母ですが、診断される半年以上前にこんなことがあったと後から話してくれました。
 散歩から帰ってきた父が大勢の子どもが後ろからついてくると言って家に駆け込んできたというのです。それからしばらくはおかしな言動は特になかったのでそのままにしていたというのですが、ある日夜中にトイレに行った時、トイレの近くに掛けてあった絵の額をトイレのドアと間違えてガタガタと押し、トイレのドアが開かないと叫んでいたということです。また、私が車で遠出している際心配して電話をしてくれたのはいいのですが、五分おきに数回同じ用件で電話がかかってきたことがありました。心配性の父の性格だとその時はあまり気にかけなかったのですが、後から思えばこれらはレビーに特徴的な、実際にはないものが見える、睡眠時に異常な言動をとる、判断や認知能力の変動が激しい(つまりいい時とそうでない時の差が激しい)、などの初期症状だったのです。最近になって、テレビでレビー小体型認知症の告知CMを目にするようになりましたが、2年前の当時、かかりつけのクリニックの医師、ましてや素人の私たち家族はレビー小体型認知症に関する知識や情報はありませんでした。ちょっと間違えば、「心の病」と言われかねない症状でもあり、精神科にいこうものなら違った診断が下ったかもしれません。
 いよいよ幻視が頻繁になり、「ソファに子どもが座っている」「駐車場の自分の車に女の人が4人座っている」「夜寝ている自分の横に○○ちゃん(実の妹)が来て寝ている」などと話したり、家がかつての職場になり、母が職場の同僚になるといった錯覚も頻繁になり、本人も気になるようなので、一度診察してもらうことになりました。
 地域で一番大きな病院の「ものわすれ外来」、「脳神経外科」などをあたり、最終的にはレビーの診断・治療ができる専門医がいる病院がたまたま近くにあり、そこにかかることに決めました。以降、父本人と私たち家族の認知症という得体の知れない病気との闘いが始まったのでした。レビー小体型認知症のことに関しては、この病気を発見された横浜の小阪憲司先生の「レビー小体型認知症」「レビー小体型認知症の介護がわかるガイドブック」がとても役に立ちました。相談に行くところもなく、とりあえず頼れるのはこのガイドブックと父が通う病院の先生だけでした。しかし介護は手探りで、認知症の本人とどう関わったらいいのかとまどい、時には声を荒げたり冷静でいられなくなることもしばしばでした。当の本人は抑うつ的になりやる気が出ない状態や、自分でも何がおきているのか理解ができなくて混乱している様子は見てとれましたが、幸いなことに暴言を吐いたり暴れたりすることはありませんでした。
 認知症とつきあいながら一年少し経った昨年夏に、父は末期の胃がんと診断されて入院することになったのですが、一般病棟で認知症患者が治療を受けるのはとても困難でした。父はもともと病院嫌いでしたが、入院初日、大部屋で夜中に「家に帰りたい」をくり返し、同室の患者さんに迷惑をかけたようで、朝駆けつけたら、ナースステーションの隣の部屋に移動させられていました。個室に移ってからもどんな言動をするかわからず、点滴を外されては困るということで、手にはミトンをはめられ、動けないようベルトをされることもありました。固定された父はそれがとても苦痛だったようで、抗う父をなだめるのに私たち家族は必至でした。父を自由にしてやりたいけど治療を受けるためには入院を続けるより他なく、父に説得を続ける日々でした。入院後は認知症も進み、理解する能力も低下してただただ「早く家に帰ろう」をくり返す父との堂々巡りが続きました。
 一般病棟の看護師さんたちは、認知症の患者への対応経験がまだあまりないようで、私たち家族が交代で夜も付き添いました。この時初めて認知症患者が一般病棟で治療を受けることのむずかしさを身を持って体験しました。レビーは徘徊や記憶障害などは目立たず、日や時間帯によって頭がはっきりしている状態とボーっとしている状態が入れ替わり起こるため、ずっと一緒にいる家族でないと認知症の症状が今出ているのかどうかを判断するのは困難です。また初期はアルツハイマーと比べてもの忘れなどの認知障害があまり目立たず、頭の回転がよく、物事をよく理解したり判断したりできます。一方で認知の変動がおこると、理解力や判断力が極端に低下し、ボーっとした状態になり、幻視や錯覚がおこりやすくなります。胃がんとわかり地域のケアマネージャーさんと密に連絡を取る様になってからは私たち家族も相談相手ができて少し安心でしたが、もし父が胃がんにならなければ高齢の母が自宅で24時間認知症の父の介護をする日々が続いていたことでしょう。父が父でなくなっていく姿をまの当たりにしながら世話を続けてきた母の身体的、心理的苦労はどれほどのものであったか想像すると胸が痛くなります。父が最終的に緩和ケア病棟に入院しお世話になることになった時、母は申し訳ないと思う一方で、少しほっとしたようでした。


佐藤一斎『言志四録』



 佐藤一斎(1772~1859)が42歳から80歳まで書き綴った語録。「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋録」の4部から構成され、総数1133条からなる人生訓、座右の銘のオンパレードのような本です。

 一斎という人物は、勝海舟や坂本竜馬、吉田松陰などの師匠に当り、門下生は6000人とも言われていたそうです。佐藤一斎門下は、横井小楠、西郷隆盛、勝海舟、吉田松陰、河井継之助など、幕末に時代の錚々たる志士たちがいます。中でも西郷隆盛が「言志四録」から101項目を選び出し(「手抄言志録」)座右の銘としていたそうで、明治維新の志士達の思想の根本を作った人です。

 内容は数々の教訓で、学問、精神、志、健康法、関わり方など本当に様々なことが書かれていて、儒教精神に基づく日本人に対する人生の教訓、行動の指針等の教えは、現代人にも通用します。啓発・指南・処世とほとんど全てのカテゴリーを網羅しています。その中にある「時代を変革する思想」はそのまま今でも十分通用するものだと思います。

言ってみれば当時のブログのようなもので、どのページから読んでも文章は短く、意味は深いので楽しめます。なかなか奥が深い含蓄のある言葉がちりばめられており、読破するより、あちこち気が向いた時に好きに読みながら、共感したり、気づいたり、深い学びを得たりする本だと思います。なかなか心を打たれるような言葉も多く、日本人として位をただすのに持ってこいです。
 背景には、儒学の思想が流れているのでしょうが、100年以上経った今でも人々が読む価値のあるものとなっているのはものすごいことです。今更ながらに言われていることも、ほとんど昔の人が言い尽くしていたんだなと痛感しました。少しづつ読み続けることで人生の正しい道ヘ近づけるでしょう。東洋の叡智の一つとして日本人が誇れる一書です。


座右の書は味読してなんぼ...正法眼蔵も何度読み返しては挫折している私としては、読み手を受け入れてくれるまで時間がかかる書こそ座右の書、なかなか巡りあうのも大変だと思います。(横山)

多元主義的視点から統合的な視点へ


ドン・ベック、クリストファー・コーワンというコンサルタントは、らせん状に進展する原理を南アフリカのビジネス、黒人居住区の再活性化、教育システムの点検使備、および旧市街区における緊張の沈静化について理解するために用い、アパルトヘイトの終息の議論に多くの実りをもたらしました。
 スパイラル・ダイナミックスと呼ばれるこのアプローチでは各段階を「ミーム」と呼びます。ミーム(または段階)は固定的なレベルとしてではなく、重なり合い相互に織り込まれ流動している波として展開しているダイナミックなラセンに帰するものと定義し、異なったミームないし存在の波に言及するのに色を使いました。そして人種の問題だらけの領域で皮膚の色から人々の心をそらせ、「皮膚の色」ではなく「ミームの色」に注意を向けさせました。

「多くの後続の調査が立証しているように、あらゆる人がそれぞれ、そういうミームすべてを自分のものとする可能性を持っている。そうだとすると、社会的な緊張の境界線は、皮膚の色でも、経済的な階級でも、政治勢力でもなく、その人間を動かしているミームのタイプによって、完全に引き直されることになる。特定の状況では、それはもはや「ブラック対ホワイト」ではなく、ブルー対バーブル、あるいはオレンジ対グリーンといったことになるだろう。そして皮膚の色は変えられないが、意識は変えることができる。焦点は、人々のタイブではなく、人々の中のタイプにある」。


クレア・グレイヴズは、このスパイラル・ダイナミックスを更に精緻化し、人間の発達を8つの段階を経て進む進行過程に当てはめています。

現在の日本や欧米は、オレンジからグリーン(矢印のあたり?)のあたりでしょうか...

オレンジ:科学的な達成。この波では、自己はブルーの群集心理から「逃れ」、個別的・帰納的、実験的、客観的、機械的、操作的、つまり「科学的」な角度から真理と意味を探究する。
世界観:操作可能な自然法則を伴った合理的合目的的機械。高度に達成指向で物質的。科学の法則が人間の出来事を支配。勝者が敗者に対する優位と特権を得るゲーム。地球資源を個人の利益戦略のために操作する。法人型国家の基礎。
表出されている形:啓蒙主義、ウォール街、中産階級、化粧品産業、トロフィー獲得合戦、植民地主義、冷戦、ファッション産業、物質主義、世俗的なヒューマニズム、自由主義的な自己への関心。


緑(グリーン):感受性豊かな自己。共同体主義者、人間のきずな、エコロジカルな感受性、ネットワーキング。階層性への反対。横の結びつきやつながりを形成。調停と合意によって決定に到達する。強度の平等主義、階級制へのアンチ、多元主義的な価値観、現実は社会的に構築されたものとする、多様性、文化多元主義、相対的な価値システム。多元的相対主義と呼ばれる。主体的で、非単線的な思考。
世界観:貪欲さやドグマや分離から自由にならなければならないとする。感性優位、やさしさ。地球、ガイア、生命へのいつくしみ。透過性のある自己、関係的自己、グループの相互の連絡網。対話、関係の強調。価値観のコミュニティの基礎(すなわち、意見・心情の共有に基づいて自由選択で加盟するような)。霊性を新たにし、調和をもたらし、人間の潜在力を豊かにする。地球とそこに住むものすべてへの強い暖かい愛情、感受性、気づかいを示す。
表出されている形:ディープ・エコロジー、ポストモダニズム、ロジャーズ派カウンセリング、人間性心理学、解放の神学、世界教会会議、グリーンピース、動物の権利保護運動、エコ・フェミニズム、ボスト植民地主義、フーコーやデリダ、政治的正義、多様性の運動、人権論争、環境心理学。

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カウンセラーという仕事は、完全にグリーンの領域です。グリーンから先は第二層と呼ばれ、「重大な飛躍」をしなければなりません。第二層の思考は、相対主義からホーリズムヘ、あるいは多元主義から統合主義へ移行ということになります。

 図の左側は、交流分析でおなじみの「I'm OK, You're OK」です。交流分析の基本理念です。それでは、I'm OK, You're OK → We are OK. は同じ意味なのでしょうか?

例えば、こんなケースはどうでしょう?


 A: 「私は今からご飯食べるけど行かない?」
 B: 「お先にどうぞ、僕はこの仕事をかたずけてから食事に行くよ。」
 A: 「それじゃあ、お先に。」
 B: 「どうぞ。」

 別に問題ありません。“You are OK.” だし、“I am OK.” でもあります。交流分析など自立を促す心理学の理論では、「個」に立脚した、お互いにアサーティブな態度をとることができて問題なしだと考えられます。


それでは、これは We are OK. となっているでしょうか?

 よく考えると、これは「わたしはわたし」「あなたはあなたな」のですね...確かに You are OK, and I am OK, both OK.
 でも全体(大げさに言えば個人を越えた全体)として、OKという視点には到っていないように思いませんか? 実は、これが現在の個人主義はの弊害であり限界であろうと考えられます。それぞれOKである、個人主義=個別多元主義の状態です。個人をこえて We are OK.という統合段階に発展させるためには何が必要でしょう?
 この対話のケースでは、お互いに配慮しあい、例えば時間を遅らせて一緒に食事に行くなどといったもう一つ高次の解決策が出てくるようになればよいと思います。

 表面的な統合によって、統制に逆戻りしないために、新しい視点や発想を持つ必要があるかもしれません。すこしずついろんな角度から物事を観察する視点を持ちたいと思っています。(横山)

〔インフォグラフィック〕ToiToiToiにおけるキャリア教育の視点

2011年1月のキャリア教育の答申で、従来の学校でのキャリア教育における能力の認識に大きな指標が提供されました。「基礎的・汎用的能力」という考え方は、従来の4領域8能力(文部科学省)、社会人基礎力(経済産業省)、就職基礎能力(厚生労働省、ただし、これは平成21年にYESプログラムが廃止に伴って提唱されなくなった。)などをうまく統合したわかりやすい指標となっています。

(図をクリックすると拡大します)

Toi To iToiで考えるインテグラル理論に基づく4象限AQAL(All Quadrants All Lines)にわたる発達的・包括的な発想にきれいに乗るので、バランスよく、より統合的で合理的な視点で検討が可能になったと考えられます。(横山)


「身口意(しん・く・い)」(仏教用語)

 三業、三位一体、口が繋ぐ身(からだ)と意(こころ)



 久々に「我逢人」を再開しようと話が持ち上がり、とにかく年初の1月中発行しようということになり、2人とも大至急で原稿をかきました。長いブランクがあったのでそれぞれ書きたいことがたくさんあるのですがとりあえず一言ずつ一番伝えたいことを書きました。
 復興・防災、地域経営などコミュニティ・デザインに関する活動を含めた、コミュニケーションの新しい潮流に少しづ津関わりながら、内容を充実させていきたいと考えています。
 新しい「我逢人」をよろしくお願いいたします。(横山)


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